『プラトン全集 5』より
プラトン著 鈴木照雄訳 岩波書店
七冊目は饗宴です。
エロスの讃美って、、、話まとまるわけ?と思いながら読みました。
『源氏物語』にもありますよね、男達による好き勝手な恋愛よもやま話(「雨夜の品定め」)。今回、愛:エロースの話ということで、そんな雰囲気を想像していたのですが、全く違いました^^;でもそんな感じで気軽に取り組んだのが良かったです。この本は哲学的な問題を取り扱っているので、分かっていたら、ちょっと尻込みするところでした。作者はプラトンなので、ちょっと考えればわかるのですが、例の百冊サイトの説明では、「美青年アルキビアデスがソクラテスに色仕掛けで迫り失敗する話も」なんて書いてあるので、軽い雑談が飛び交う本なのかしらと思ってしまいました。
さて、エロースについて語るのは①パイドロス(弁論家の心酔者)、②パウサニアス(弁論家の生徒)、③エリュクシマコス(医師)、④アリストパネス(喜劇詩人)、⑤アガトン(美貌の悲劇詩人)、⑥ソクラテス(哲学者)、続けてついでのソクラテス讃歌、⑦アルキビアデス(なんにでも優れた美貌の野心家)です。ついでと言いましたが、師であるソクラテスの思想を普及したい弟子プラトンとしては、これも本題の一つであろうとのことなので、実際にはついでではないです。大事です。作者プラトンによって、彼らはそれぞれの立場を風刺されながら、対話を交わし、エロースの本質に迫っていきます。
大雑把に彼らのエロース説と讃歌を述べますと、
①並み居る神々の中でもエロース誕生は古い!だから尊い。さらに、愛に生きる(むしろ死ぬ)ものを称賛し(ここで多数の文献紹介)、我々に徳と幸福をもたらしている。
②エロースには二種類(単一親から生まれた古いものと二親からうまれた新しいもの)存在するわけだから、その行為においてもそれぞれ考察すべき!つまり、古い方(ウラニア・アプロディテ)は尊く、徳に向かって励まねばならぬようにさせるが、新しい方(パンデモス・アプロディテ)は肉体等の誘惑に基づき低俗であるよ。
③エロースが二種類であるとした②の分析は見事。しかしエロースはさらに広く、偉大な力をもっている。種々の相反するものを和合させる力、分裂抗争しつつもそれ自身、さらにそれ自身と一致統合しているという調和における力の源であり、これらは医学、音楽、天文学、卜占術等で活用されている。そのためこれらの力は、人間間だけでなく神人間間とも交わりその友となることのできるようにしむけてくれる!
④くしゅんっ(くしゃみ)!!―お、しゃっくり止まった!わーい、よかった~\(^▽^)/。。えーっと、いやいや、もっと違った角度から考えようじゃないか。人間というのは元は三種類いた。すなわち男男と男女と女女だよ。だけど神々への不遜の結果、分割されてしまったので、いまは男と女しかいない。我々は割かれてしまったので、失われた半身を求め、一つになりたいと切に望んでいる。このとき、この探求に力を与えるのがエロースであるから讃えよう。
⑤エロースは最も若い神なのだ。(色んな証拠らしいものを挙げながら)若くみずみずしく華奢で美しいのだ。そしてエロースは美しいものを目指すからこそ、エロースが触れなければ何も生み出されない。正義、節制、勇気、知恵、創作創造すべてにおいて導き手となり、神々ですらエロースの弟子である!ついでにほんとに詩でもって讃えてやろう~ららら~
⑥異人女性ディオティマから聞いたエロースの真義について述べるぞよ。自ら美しいものは美を求めない、醜いと知らぬものも美を求めない。醜いけれども美を求めるもの、それがエロース。美ではないから神ではない、永遠だから人間ではない、神と人間の中間なるもの、それがエロース。色々総括すると、恋(エロース)とは、よきものが永遠に自分のものであることを目指すもの。そしてその行為は結局“妊娠”に行きつく。妊娠とは肉体的なものもあるが精神的なものもあり、これは肉体的なものよりも強く、不死なる名声と想い出とに値するものであれば偉業とも讃えられる。そして肉体→精神→・・(飛躍的跳躍)・・→学問→美の学問という段階的(飛躍あるけど)探究を経て、究極的には美そのものを知るに至る。。。
という感じです。
議題のエロース論については、最後のソクラテスが述べたことが最大に言いたいことだと思いますが、表層的とみなされているその他の人の説も有名です。昨日本屋に行ったら「人は失われた半身を求めて恋愛を求める」みたいな煽り文句がついた新刊の小説が置かれており(タイトルをチェックしておけばよかった!)、アリストパネスの話に出た説が、いまもって作家にインスピレーションを与えていることがわかります。
それから欠かすことのできない美少年・美青年LOVE!②以降、彼らそれぞれの立場からこの少年・青年愛について語っていますが、いずれも否定的なものはなく、男女愛よりも上位に見ているようです。だけど、最後の⑦にも関連しますが、アルキビアデスはそこでソクラテスが自分の誘惑にとらわれず、平然としていたことをもって讃歌としています。それを考えると、愛において恋愛しない(精神的ならOKかも?)ことをより上位におくのがプラトン流かもしれません。
私が面白いと思った喩えは、②において、スパルタ等の口下手な地域は若者達を弁舌で説得する厄介を背負い込むまいという意図からエロースに関する習わしも無条件的にOKという話。耳が痛い言葉。口下手の弱みをぐさっとさしてます。ちなみに、夷狄に支配されているイオニアと口達者なアテナイの慣習がこれに対比されています。
最終的には哲学的な話になるので、今回は難しい内容でした。今もって、愛とは問われる存在にあります。もし彼らの会話に参加するとしたら、エロースについてどんな賞讃が自分にできるかしら?。。。雨夜の品定めのような展開では立場上参加は厳しいでしょうが、彼らの饗宴になら、考え次第で参加を認めてもらえるかもしれませんね。恒久的な問いへ昇華することによって、立場に関係なく、誰にとっても平等な課題になるというのが、哲学の凄いところです。
余談ですが、ソクラテスは書物を残さなかったとのこと。そういえば、イエスやブッダもですね。マルクスも執筆はエンゲルス頼みと聞きました。後に書物に記す理解者、賛同者の苦労を思います。その分、良いところだけ書けるという利点もあるかもしれませんが。。。ソクラテスはそもそも、書き言葉として記すことをとても警戒していたようです。検索していると、ソクラテス流のこだわりがよく紹介されています。ソクラテスには弟子がいないこと(弟子とみなされている有名な人も、ソクラテスにとっては友人)にも関係してそうです。書物がいまよりずっと貴重だった時代ですから、書物にされてたら無条件に尊ばれたり、誤解による曲解がはびこったり。。。思索に生きた人らしい警戒です。でも発言がすぐに報道されてしまう現代に生きていたら、書物の方が誤解が少ないと思うかしれませんね~
上記で述べている、本屋で見かけた本は、入間人間『瞳のさがしもの』でした~。帯には「『恋』とは、『もう片方』を探す旅だ。」と書いてありました。
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